推しに会ったときの話

 もう時効だと思うので、それと表のアカウントではちゃんと話したことがなくてどこかで記録に残しておきたいと思ったので書こうと思う。

 イ・ジェフンさんに会ったことがある。偶然。

 いや、偶然と言うには会える可能性が元から高すぎるシチュエーションだったかもしれない。とにかく、会いに行ったわけではない場所で会えた。二年前、ファンミーティングの帰りに、仁川空港で。

 

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『輝く星のターミナル』DVDパッケー

 当時ジェフンさんは『狐嫁星(邦題『輝く星のターミナル』)』というドラマの撮影中で、SNSには毎日のように仁川空港での目撃情報が上がってきていた。何しろジェフンさん演じる主人公が仁川国際空港公社の職員という設定で、実際に空港でたくさんロケをしていたため、利用客の目に留まる機会がものすごく多かったのだ。ファンミーティングが開催された2018年8月末はドラマの放送開始前で、ファンは日々目撃写真や動画を眺めて作品への想像を膨らませていた。わたしも航空券を予約するときあえて金浦ではなく仁川発着の便を選び、ロケ地の空気だけでも感じようとしていたように思う。ちなみにこのとき台風で往路が欠航になり翌日の便を取り直すなど色々しっちゃかめっちゃかだったのだけど、それはまた別の話。

 ともあれペンミには無事参加できた。ステージの上のジェフンさんは終始ニコニコして穏やかで照れ屋でとてもかわいらしくて、真面目すぎてファンサービスをめちゃくちゃ一生懸命してくれてまるで天使だった。ファンサービスを過剰にしてしまうくらい真面目なのだ。2回公演で2回とも参加したんだけど、最後のお見送りのときに(出口で一人ずつ握手してくれた)、1回目「日本から来ました!」って言ったら2回目のときはそれを覚えてくれてて、韓国語で話しかけたのに日本語で「ありがとうございます」と返してくれた。やっぱり天使だ。いや人なんだけど、職業として俳優を選択しているだけで同じ人間なんだけど、やっぱりどっちかっていうとたまたま人として生まれ映画を愛しすぎて俳優になることを選んだ天使さんなんだと思う。幸せだったな。

 その幸せな気持ちのまま翌日仁川空港に向かった。空港鉄道の中でTwitterを見ていると、その日の午前中もジェフンさんは空港で撮影していたらしいことが分かった。ペンミ2回公演の翌日にもう朝から撮影してるのか……大変だなと思った。わたしのフライトは3時くらいの便で、空港に着くのは午後の1時。もう目撃された場所での撮影は終わっているだろうし、オープンスペースでの撮影がそんなに続くわけでもないだろう。「同じ建物内にいるかもしれない」という事実だけを胸に、ちょっと多めに空気吸っておこう。それくらいの気持ちだった。

 

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仁川国際空港第一旅客ターミナル(公式サイトより)

 ちなみに仁川の第一ターミナルは弓のようにゆるやかなカーブを描いた造りになっていて、出国エリア利用者は免税店などが連なる3階中央のメインストリートを進むことになるんだけど、これがとにかく果てしなく長い。利用したことのある人は分かると思うけど、行けども行けども終わりが見えない。天井も高くめちゃくちゃ広大な印象を受ける。ペンミの余韻でぼーっとしながら保安検査場を抜けたわたしは、自分がターミナルの西の端、目指すべき搭乗ゲートのちょうど反対側に出てしまったことに気がついた。まぁしょうがない。ていうか別に構わない。推しの主演ドラマの撮影がどこかで行われているかもしれないと思うと妙にうきうきする。あの頃は当然ながらCOVID-19の流行前で、ハブ空港である仁川には本当に様々な国の人が行き交っていた。わたしの耳にはなじみのない外国語が飛び交い、日本では見られない色彩の服を着た人々とすれ違う。みんなどこか浮足立って感じられたのは、単にわたしが浮かれていたからだろうか。あのときの空港には、確かにそんな空気が流れてように思う。そんな中、ターミナルの東側を目指してまっすぐ歩いていると、まず大通りの向こうから、大きなカメラがやってきた。

 旅行客が使うようなものじゃない。映画のメイキングなんかで見るような、なんか椅子がくっついててそこにのぼって操作する、クレーンまではいかないけど人の背丈よりはでかい、ああいうやつ。あれが進行方向からやってくるのだ。数人のスタッフさんが囲んで、静かに押しているのが目に入った。どうも移動中らしい。カメラ。まさか。よく見るとスタッフさんは首からIDカードらしきものを下げていた。それには見覚えがあった。ジェフンさんの撮影の目撃写真に写っていたものだ。さらにもう少し進むと、また別のスタッフらしきお兄さんが、今度は大きなバナーを担いで歩いてきた。それも見覚えのあるものだった。バナーには大きく「『狐嫁星』撮影中。ご協力お願いします」というような文句が書いてあった。撮影のあいだ、利用客に向けて掲示しておくためのものだ。すでにめちゃくちゃ見慣れた狐嫁星のロゴがプリントされていた。狐嫁星!!!間違いなくジェフンさんのドラマのスタッフさんたちだった。

 

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『狐嫁星』の韓国版ポスター。当時スマホのロック画面をこの画像にしてた。

 次の撮影のセッティングなのか、あるいはもう作業が終わってどこかに片づける途中なのか、とにかくスタッフのみなさんが各自移動中のようだった。ものすごく気になったし、ちょっとついて行ってみたくなったけど、フライトまであまり時間もないし、行ったところで野次馬でしかないので迷惑になるだろう。とにかく搭乗口を目指して進むことにしながら、スタッフさんとまたすれ違うんじゃないかという期待感を抱いて、わたしは何となく通りの反対側に意識を向けていた。特に線引きがされているわけではなかったが、混雑していたメインストリートでは自然と右側通行が保たれていて、西から東に向かうわたしと東から西にやって来るスタッフさんは動く歩道や案内板を挟んでちょうど通路の反対側を歩いていたのだ。

 正直、期待をしていなかったわけではない。もしかしたら俳優さんたちが歩いてくるかもしれない……そう思わなかったわけではない。でも夢物語だと思った。だっているわけがない。そもそもジェフンさんが参加しないシーンの撮影だってたくさんあるんだろうし、もしくはすでに移動し終わってるかもしれない。だいたい俳優さんは別ルートで移動しているんじゃないかな。こんな人通りが多いオープンエリアを普通に歩いてたり、しないと思う。たぶんきっと。そう思いながらも、目は通りの反対側を行き交う人々を必死に追っていた。……はずだった。

 

 あのときに起こったことが何だったのか、今でもよくわからない。とにかくわたしは、そのとき……振り返ったのだ。突然。なぜかは分からない。それまでずっと、前だけを見つめていた。待ち望んでいた人は前から来るはずだったから。なのに、そのときなぜか、突然……振り返った。そしたらそこに……いたのだ。見えた。見慣れた後ろ姿が。何度も何度も映像で見てきた後頭部が。昨日もステージでずっと見つめていた背中が。その瞬間、わたしは走り出した。

 すれ違ったはずだ。通りの反対側に、人波の中に、彼の顔をわたしは見たのだろうか。見ていたら、気づかないはずはない。だけどわたしは彼を見逃した。だが振り返ったのだ。そして彼を見つけた。

 

 ジェフンさんはひとりだった。ひとりで悠々と人ごみの中を歩いていた。前を歩きながら電話していた男性がいて、もしかしたらあの人がマネージャーさんだったのかもしれない。けど静かに前を見つめてまっすぐ歩くジェフンさんが、そのときはあまりにひとりに見えた。短く整えられた髪をして、白いシャツにグレーのスラックス、首からはIDカードを下げていた。手には台本を持っていたように思う。劇中の姿のままで、そしてその姿は、仁川空港職員という設定の衣装をまとい職場たる空港を悠然と歩く彼は、あまりにその空間に溶け込んでいた。溶け込みすぎて誰にも俳優だと気づかれていなかった。本当に。だけど歩き方はいつものジェフンさんだった。まっすぐ伸びた背筋も、生真面目な佇まいも。

 わたしは混乱していたし、めちゃくちゃ迷っていた。声をかけてもいいのだろうか、今は声をかけてもいいタイミングなのか、移動中ってお仕事中か、それとも休憩中なのだろうか?声をかけるのは迷惑か、それよりこのままでは無言で後をつけることになってそのほうが不気味ではないか、そもそも周りに誰もいないってどういうことだろう、わたしのような不審人物が近づいてしまっていいのか、一体どうなっているんだ……とか考えているうちに気づいたらすぐ近くまで接近してしまっていて、もう声かけるしかない!と思って話しかけた(※今でもこの判断が正しかったか分からない、というか本当は言うまでもなく「追いかけもせず、声をかけもしない」のが最も望ましいだろう)。

 「べうにむ(俳優さん)……イジェフンべうにむ!」と二回呼びかけると、ジェフンさんが気づいて振り向いてくれた。本当はこのとき、声をかける直前、コンマ数秒の間にわたしは言うべきことを脳内でしっかり組み立てていた。まずはファンですって自己紹介をして、昨日ペンミすごくよかったですって伝えて、演技がとても好きですってことと、それからできれば高地戦を観てファンになったってこと、これからも作品を楽しみにしてるってこと、それから、それから……。

 だけど推しが振り返った瞬間そういうの全部飛んだ。

 わたしの声が彼に届いたってこと、彼がわたしの声を聞いて振り向いてくれたんだってこと、その事実にあまりに強い衝撃を受けてわたしはもう頭が真っ白になってしまった。目の前のひとはわたしがずっと見つめ続けていたひとで、そして昨日二回も握手した人だ。ショートした思考回路で瞬時にそう判断したらしく、わたしは気がついたら韓国語で「昨日……、ありがとうございました!」と口走っていた。

 誰?そう思ったと思う。いや誰だよ!わたしだったらそう思う。いきなり何のお礼なんだ、怖いよ!!だけどジェフンさんはわたしの様子と「昨日ありがとう」という前後の文脈をすっ飛ばした言葉からすべてを察してくれて「あぁ、ありがとうございます」と微笑んで手を差し出してくれた。わたしは相変わらず頭真っ白のまま反射的にその手を握り返して、「撮影がんばってください」と何とか絞り出した。ジェフンさんはもう一度ありがとうってにっこりして、それから日本語で「ありがとうございます」と言ってくれた。とても美しい発音だった。わたしはその場で立ち止まり、最後に「ありがとうございます……!」と韓国語と日本語両方で叫んだ。ジェフンさんは笑顔のまま振り返り、ふんわりお辞儀をして歩き去って行った。

 それだけ。たったそれだけだった。

 背中が見えなくなるまで見送って、わたしは元来た道を引き返した。早く搭乗ゲートに向かわなくてはならなかった。震えていた。涙があふれた。けど足は止まらなかった。わたしは仁川空港のど真ん中を歩きながらおいおい泣いた。

 こうして書いていると、まるで夢だったような気がしてくる。

 ジェフンさんは物腰が柔らかく、とても穏やかで、丁寧で、真面目で誠実なひとだった。わたしが会ったのは、わたしの好きな、ずっと見てきたジェフンさんそのひとだった。

 

 

 

 それにしても留学までしてそれ使って仕事もしててそれなりに自負心を持っていた韓国語力がひとつも役に立たなくて愕然とした。頭真っ白になるとすべて無意味だ。冷静に考えると突然出くわした推しと会話するなんて日本語でだって困難なのに、外国語で挑戦しようとしたんだからえらい。むしろそれまでの積み重ねがあったからこそ頭真っ白でも昨日ありがとうと撮影がんばってを絞り出せたんですよ、そうでしょう?そうだと言ってくれ。生涯一度しかないであろう奇跡の瞬間をたった三言で締めくくってしまったのが悔やまれたので、翌年友達と韓国旅行したとき事務所まで行ってこのとき会えてうれしかったありがとうという想いをしたためた手紙を預けてきました。日曜なので事務所お休みで扉の前に置いてきたけど……届いたはずだ。そう思っておく。

 

 あとこのとき何でわたしは振り返ったんだろうっていうのが本当に不思議だ。

 たまにドラマやアニメなんかであるじゃないですか、横断歩道ではっと“何か”を感じて振り返ると、すれ違った人波の中に、昔好きだったあのひとの横顔を見つける―みたいな。その瞬間すべての音は遠ざかり世界は白い光に包まれ……ああいうのはフィクションにおける演出だと思っていたけど、実際に起こり得るものなのか。正確には“何か”を感じすらしなかった。気が付いたら振り返っていた。そしてそこに推しを見つけた。

 

 

 ちなみにこの日不思議だったことはもうひとつあって、ここから先は完全に余談なんですけど、このとき目指していた東側の搭乗ゲートというのは実は間違いだったんですよ。

 泣きながらずんずん歩いてターミナル東側のさらに奥に張り出したエリア(弓型のターミナルにウサギの耳のように二本の棟が突き出ていて、その両側に搭乗口が連なっている)の一番端までたどり着き、泣いてお腹も減ったのでサンドイッチとジュースを買ってかぶりついてたんですけど、ようやく気持ちが落ち着いた頃ふと辺りを見渡すとあまりに人がいないんですよね。そろそろ搭乗開始時刻なのに。ゲートの変更でもあったのかな?と案内表示を探すけどそれらしきものもない。単に遅れているのだろうか。それにしたって集まるの遅すぎ、みんな呑気だな。そう思っていた。これは何かおかしいぞ、とようやく気づいたのは搭乗開始時刻を過ぎた頃で、なんと乗る予定の搭乗口の向こう側から到着客がぞろぞろ出てきたのである。えっ??ガラス窓で区切られた奥、入国ゾーンを人々が笑顔で通り過ぎていく。今飛行機が着いたの?これからわたしが乗るのに??そこでやっとチケットを確認した。いや、それまでも何度も見ていたんだよ。だけど気づかなかった。チケットに印字された二つの数字……。わたしはなんと座席番号をゲート番号だと錯覚していたのだ。

 あほすぎてこのときのチケット写真に残しておきたいくらいだったけど、何せ写真を撮るひまなんぞあろうはずもなかった。本来のゲートは101。今いるゲートは19。数字見ただけで分かる。この二か所が果てしなく離れているってこと。そして仁川空港ヘビーユーザーなら即座にピンとくるだろう、100番台は別棟、シャトルに乗って移動しなければならない場所にあるということを。

 わたしは走った。そのときの航空会社はチェジュだったかt’wayだったか、とにかくLCCはこういうとき一切待ってくれないと聞く。ウサ耳の先端から根元まで必死に駆け戻り、インフォメーションのお姉さんに泣きつき(該当便に連絡してくれた上で「走ってください」と日本語で言われた)、ついさっき涙をこぼしながら歩いた大通りを全力で走り抜けた。その時点でフライトまで15分を切っていたように思う。いくつものエスカレーターを駆け下り、シャトルに飛び乗って、辿り着いたコンコースのさらに一番奥に101番ゲートはある。その最後の直線を走りながら、笑いがこみ上げた。こんな間違いをやらかしたことはなかった。それがよりによって今日だ。推しに会った日。結局ゲートが閉められる直前、ギリギリのところで何とかすべり込んだ。息を切らしながら席に座って、思った。最初から101番のゲートを目指していたら、わたしはさっさとシャトルに乗り込んで、本棟を離れていただろう。ターミナルの東側に行くこともなく、そしたら、ジェフンさんに会うこともなかった。

 座席番号をゲート番号と錯覚するなんて、そんな間違いをしたことはなかった。それまで一度だってなかったのだ。